うちの娘は不登校②
皆さんこんにちは!
子供たちが夏休みに入った途端自分の時間が無くなりまして・・・💦
夏休み明けに更新という遅筆ぶり、すみません。でも今日も綴っていきたいと思います😆
前回の『うちの娘は不登校①』では、小学校1年生で不登校になり、低学年の不登校について自分と周りの認識の違いなどについて書きました。
詳しくはこちらをご覧ください↓
今回は、実際に不登校になった当初の、娘や私たち家族のやり取りについて書いていきたいと思います。
実際に不登校のお子さんをお持ちの方で、何か発見や共通点が見つけられて、今後の参考になれば幸いです。・・・参考というのはおこがましいですね、一例です❕
今回はこんな感じで綴っていきます
【1.小学校入学、そして登校渋り】
入学前、娘は小学校に対して特に憧れがあったわけでもないですが、逆に嫌がってもいませんでした。
ただ姉が通っていて、みんなが大きくなったら行く場所だという認識はあったように思います。
それでも入学式の日にはおしゃれをして、ピカピカのランドセルを背負って、近所の同級生と笑顔で記念写真を撮ると、これから始まる学校生活を楽しみにしていたように見えました。
ところが、娘が入学したのは今から3年前。
そう、コロナが世界中で流行し、日本でも猛威を振るっている時期だったのです。
なので入学式も縮小、短縮。
終わると2か月間の自粛期間で、大量の課題を持って帰り、家庭学習のスタートとなりました。
常々思います。時期が悪かったと・・・
コロナが不登校の原因とは言い切れませんが、きっかけになったと思っています。
そして、保育園育ちの娘にとって、ちゃんとしたお勉強のスタートが家庭学習だったので、ここも勉強に対して苦手意識を持たせる第一歩になってしまったと感じます😥
初めてのタブレットを使っての授業は、まだ学校側も対応が追い付いてなく、まともに受けられたものではありませんでした。
それでもなんとか課題を終え、いよいよ登校しての授業開始❕
ここで*1HSCっぷりを発揮していくことになりました。
まず、知らない子ばかりの教室に入れない。
同じ保育園だった子は1人しかおらず、しかも男の子。女の子の知り合いはいませんでした。
登校して毎日、娘にとって教室に入る一歩が緊張の瞬間だったのだろうと思いました。
そして授業も、2ヶ月という長い期間空いてしまっていたので、結構なスピードで進められていきました。
先生も焦りがあったのかもしれませんが、進めたいからか採点も少し厳しかったです。
これも彼女にとっては辛かったようです。
そして、登校するようになって2週間ほどで1年生の親は見守りやお迎えが無くなる中、娘は私に一緒に登校するようにお願いするようになったのです。
これが母子登校の始まりでした。
【2.母子登校】
私たちの地域では、新入生の親が危なくないところまで登校班について行ったり、集合場所までお迎えに行ったりします。
でもそれも2週間ほどです。
それくらいになれば班にも学校にも少しづつ慣れ、親の目がなくても安心して子供たちは通えるようになっていきます。
娘も同様に、仲良しの友達と笑いながら登校する様子が見えたので安心した矢先のことでした。
『学校やだ・・・』
突然発せられた言葉に、一瞬思考が止まりました😨
何が嫌なのか、学校で何かあったのか訊いても明確な答えは返ってきませんでした。
それでも急に行き渋り出したのです。
ママと一緒なら頑張れるというので、私はまだ乳飲み子だった三女を連れて登校班についていくこととなりました。
学校まで着くと、手を振って校舎の中へ入っていくのでしばらくはそれで頑張りました。
それでも、段々と校舎に入れなくなり、教室まで連れて行くことが増えていきました。
そしてまた少し経つと今度は
『登校班で行きたくない・・・』
登校班には友達だけでなく長女もいました。
なので私がいなくても寂しくないだろうにと思っていたのですが、甘かったです😔
正直、私は産後の体で乳飲み子を抱っこしながら通学路を歩くのに、かなり抵抗がありました。
⦅辛い・・・これだけ毎日あなたに時間も命も削っているのになぜなんだ?⦆
そんな思いが私の中に蓄積していきました。
ときにはそれが爆発し、大声で怒鳴りつけたこともありました。
そんなことをしても状態は変わらず、むしろ後退していくこととなったのです。
【3.五月雨登校】
皆さんは五月雨登校なる言葉を知ってますか❓
私は娘がこうなって初めて知りました。
五月雨登校=完全に不登校ではなく、週に1~2日は休むけれど他の日は登校する状態を言います。
母子登校も辛くなった娘は、五月雨登校になりました。
朝、ベッドにうずくまりメソメソと泣き出し、『今日は行きたくない』と訴えるようになったのです。
私も最初は、何言ってるの!みんな待ってるよ!と声掛けしたり、なんとか彼女が行きたくなるようなご褒美を用意したりして登校を促していました。
そしてたくさんある不登校関連の本を読み漁りました。
何とかして学校に通わせてあげたい、友達と楽しい思い出を作ってほしい、そんな思いでいっぱいでした。
このころから学校側も少しづつ焦りが見えてくるようになりました。
面談をして家での様子を訊かれたり、休みの日はクラスメイトからのお手紙をもらったり、先生も登校させようと必死になってきたようです。
放課後、家に電話がかかってくることも増えました。
日中みんながいると来られないならと週に1回、放課後登校して軽く授業を受けたりもしました。
ところが1~2日の休みが3~4日になり、完全不登校になるまでそう時間はかかりませんでした。
【4.完全不登校】
ついにこのときが訪れました。
母子登校➡五月雨登校➡完全不登校
もう意味が分かりません。
ここまであらゆることをしてきました。
育児休業中だった仕事も復帰を諦め、退職しました。娘にとことん寄り添おうと思ったからです。
それでもずっと行き渋りの理由もわからず、相談員さんからは愛情不足だと言われ、私が今まで娘のためにやってきたこと全てを否定されたような気すらしました。
こうなるまでにいろんな方に相談してきました。
主人を筆頭に家族、学校の先生、SSW(スクールソーシャルワーカー)、SC(スクールカウンセラー)、市の相談員、特別支援学校の相談室など・・・
それでも娘の表情はどんどん曇り、顔も白くやつれてきたような印象すらありました。
上記は全て娘が1年生の時に起こったことです。
小学校に通い始めて半年で不登校になろうとは、だれが予想できたでしょう❓
そんな姿を見て、私たち夫婦は彼女の好きなようにさせようと決めたのでした。
好きにさせるということは、勉強もしたくないならさせない。(まずやらないw)
ゲームや動画をやりたいだけやらせる。
ただしごはんの時間は守ること❕
そうすることで娘に元気が戻るなら、何したっていいと思うようになりました。
1年生が終わるまでずっとこんな生活でした。
周りの人には、子供を甘やかすからこんなことになるんだと思われたかもしれませんが、私たちはこの選択は間違っていないと思っています。
なぜなら、この生活をするようになってから、娘に笑顔が増えたのです。
ゲームばっかりして・・・💢という気持ちはもちろんありました。
我慢できずに言ってしまうこともありましたし、全然大人な対応はできませんでしたが、それでも私なりに彼女のこの状況を受け入れようと必死だったのです。
子供が不登校になったとき、当人はもちろん苦しくて辛い気持ちでいっぱいだと思いますが、同じくらい、もしくはそれ以上に親も苦しいのです。
だからなんとかこの状況から脱しようと、いろんな不登校の関連本を読みましたが、参考になったかは疑問です。
なぜなら、不登校の理由が人それぞれ違うからです。
それならばどう受け止めたらよいか、子供の自己肯定感を下げないようにしたらよいかを気に留めて参考にしたほうがよっぽど役に立ったように思います。
後は、自分の気持ちを吐き出せる相手や、場所を設けることが何より大事です❕❕
私はTwitterをやって、こんなに自分と同じ苦しみを持ってる人たちがいたのかと驚きましたし、同時に安心しました。
不登校の対策本を読むなら、Twitter開設したほうが勉強になりますよ❕❕ww
#不登校の親
で検索してください。びっくりしますよ😁
不登校は親も子も辛いです。
それでも孤独ではないです❕❕
生き方も多様性が認められてきた時代ですから、学び方だって多様性があって良いと思います。
生きててくれたらこの先何か見つかります❕❕
そう信じて、これからも子供たちに寄り添っていきたいと思います😊
長文失礼しました💦
*1:HSC…HighlySensitiveChild、人一倍敏感な子